Road : つれtakeロード
小田原
宮島永太良はここ数年、生まれ故郷の小田原に帰るたびに心が洗われる気持ちになることが多く、何かにつけては定期的に帰っているという。そんなわけで今回もリフレッシュをもとめ、神奈川県小田原を訪れた。
「今住んでいる東京の場所からでも、新幹線を使えば40分。各駅停車でも1時間30分と、そんなに大変な帰省ではありません」と宮島は語る。
小田原の玄関/小田原駅は、そのJR東海道新幹線、東海道在来線をはじめ、小田急線、大雄山線などが通る比較的規模の大きな駅だが、今の駅舎は2003年に高架式に建て替えられたものだ。昔の駅舎は東口、西口両サイドから地下道を通る形で、通行には入場料が必要だった。東京駅、また少し前の新宿駅と同じ方式である。
「近隣の平塚や茅ヶ崎、藤沢はもっと早くから高架のタイプだったので、早く小田原もそうならないかと当時は思っていましたが、建て替えから約20年経った現在、昔の駅も大変恋しく思います」。
建て替えられる前の駅舎は、さらに古い駅舎のデザインを模して作られたものだ。関東大震災で全壊した旧々駅舎のリニューアルだったのだ。
小田原駅というと東口が紹介されることが多いが、宮島にとっては西口も大変深い思い出を持っている。西口ロータリーの中央には、北条早雲の騎馬像が立つ。北条早雲は小田原城の初代城主とされているが、実際にはそれ以前にも、築城主をはじめ、いくつかの城主が存在したようだ。しかし早雲以降五代にわたり小田原を繁栄させた北条氏は、やはりこの小田原の歴史を代表する存在である。早雲は青年時代、伊勢新九郎という名前であったが、宮島が以前個展を行った小田原の「新九郎ギャラリー」は、ここから名付けられている。同ギャラリーは現在鴨宮に移転し、今年はもうすぐ住谷重光氏の個展を控えている。
駅に話を戻すと、実は宮島の生家もこの西口広場の間近にあった。
「昔は西口には駅前広場はなく、小高い丘が駅舎入り口直前まであったと聞きました。私の生家もその一番低地の方にあり、家族にも大体どのあたりだったかは聞いています。現在その場所は平地になっていますが、偶然、ちょうど私の家があったらしいあたりに、角度的にも同じくらいの小さな路地があります。昔の写真を見ても、新幹線ホームの見える方向などがほぼ一緒です。いつも小田原に来ると、ほとんど記憶のない生家を偲びながら、ここを通りたくなってしまうのです。
この小田原駅西口から少し歩くと、宮島の母校、城山中学校があり、さらにその筋向かいには、宮島と家族が20年あまり住んでいた母屋がある。
「今は別の人の所有になっていますが、26歳の時、ここへ引っ越して来た時には、通っていた中学校の至近距離だったこと、また生家からも遠くなかったことに不思議な縁を感じました。以前このコーナーでも話題にした自通称『テラハウス』も近くであり、引っ越したというより馴染みの地に来た、という感じでした。中学校当時ここに住んでいたら、かなり寝坊しても始業に間に合ったのでしょうけれど(笑)」。
この旧家の付近を下ると、線路にかかった通称「青橋」があり、さらに小田原城旧空濠を海岸方面に進むと、星槎城山トンネルがある。
「かつては、海に近い地域から、小田原城付近まで出るのはわりと時間がかかったのですが、このトンネルができて変わりました。これも中学校当時にあったら、登校がかなり楽だったでしょう」。
またまた昔の惜しみが続くが、これも故郷に帰って来ての醍醐味であろう。
先ほどの生家に2歳までいた宮島は、その後家族とともに海の近くの地域に引っ越した。小田原文学館の隣、今は高齢者施設になっているその場所は「西海子(さいかち)通り」と呼ばれる通りを横に入った場所にあった。この西海子通りは、春になると桜のトンネルと言ってもいいくらいの満開で知られる。また桜の時期に来てみたいものだ。
そして海へ。
小田原の荒久、御幸が浜の海岸は、波が荒いことで知られている。
「昔から、この海岸に来るのは好きでした」と語る宮島。晴れた日には、宮島のパワースポットとしても取り上げたことのある伊豆大島の姿が望める。特に夜の海岸は、宇宙空間にそのまま包まれているようで神秘を感じたという。作品に海や宇宙の描写も多い宮島だが、その原点は、この場所から、そして故郷から得たものも大きかったと言えるだろう。
(文・写真 宮島永太良)